◆ 座 談 会 ◆

 音楽評論と評論雑誌のあり方について   

-- いまその時代への責任を考える --

   芸術現代社社長 中曽根松衛、 編集部 矢沢  寛、 編集次長 野口 剛夫
   司会   編集長 助川 敏弥
                               

 映像時代といわれる風潮か、活字離れということか、評論を扱う雑誌新聞が生きにくい状況が見られます。昨年は幾つかの歴史ある刊行物が休刊終刊の道をたどりました。本誌「音楽の世界」も評論雑誌であり、小なりといえどその役割を果たしてきたが、もちろん状況はきびしい。しかし、それゆえにこそ、数少ない評論の場をまもる決意を固めなければならなりません。
 今日は、音楽出版界の長老で、月刊誌「音楽現代」の発行元、芸術現代社社長の中曽根松衛さんをお迎えして、最近の音楽評論誌の状況、戦後の評論界の流れ、音楽出版界の歴史など、その永いご経験からお話して頂くことにしました。中曽根さんは、戦中戦後の音楽出版界に生きぬいてこられた方です。出版界の長老として、アマチュア雑誌である「音楽の世界」編集部としてもそのご経験から学びたいと思います。 (司会者)

 四十三年前の出会い、オイストラフ事件

助川 中曽根さんと私との出会いは、実はいまから四十年以上前、通称「オイストラフ事件」の時です。私がまだ東京芸大の学生の時、ソ連からオイストラフが来日しました。その時、学生のための音楽会を開いてもらおうとい学生の運動が起こって実行委員会が出来て運動を始めました。私は芸大の自治会にいたので実行委員になりました。ところが、社会常識の欠如から招聘元のマネージャーの存在を忘れて無視する形で進めたため実現不可能になった。てんやわんやの大騒ぎで、新聞、週刊誌にも書きたてられる騒動になりました。一九五五年のことでした。都内の幾つもの大学が参加しましたが、東大、芸大、日本女子大、この辺が主犯格です、いま考えれば常識に欠けるみっともない話で、券を買った学生諸君にも結局払い戻しも出来ず、申し訳ない限りです。その時、当時、音楽の友社におられた中曽根さんから事情を聞きたいというお電話があり、私のほか多分東大生一人と会社へうかがいました。その時はじめてお会いしたというわけです。その時はおとなの目からの見解を穏やかに語られたことを記憶しています。それ以来永いお付き合いでお世話になっています。

 音楽出版界の状況、評論界の動き

 本題に入りまして、今年に入って「音楽旬報」が終刊になり「音楽芸術」が来年から休刊、また、ロック系の「ミュージック・ライフ」が四十年以上の歴史を終えて来年から休刊、そのほか、総合誌「中央公論」が読売新聞に買い取られるということが続いて、どうも評論雑誌新聞がやりにくくなっているといいう状況があります。個々の雑誌にも問題があるのでしょうが、背景に社会状況の変動があるかと思われます。その辺について中曽根さんいかがですか。
中曽根 基本的には啓蒙誌のあり方ですね。私の所もその一端を担っているわけですが、もっと強く聴衆造りというかそういうことをやらなければならないのに、そうした気風が欠けている。たとえば作曲界のある種の上層の人たちの論議とか、そういうものに終っている。私自身は、雑誌のコラムとか、昭和の楽界の歴史とかそういう仕事をしていますが、問題はどうやって啓蒙の仕事をしていくかということ、それが一つ。それから、論争がなさ過ぎる。言挙げがないということ。かつてはすごい論争があった。昔の「音楽芸術」を今持ち出してみたら、私がいた頃、演奏家が「批評家は無用の長物だ」という、それを特集にしてやってる。その反対に「作曲家にもの申す」「作曲家は何をやってるんだ」という特集もある。ともかくすごい論議をやっていた。それから、ピアノの鍵盤は日本人は体が小さいから小型のものを作るべきだ、という説と、そうでない、という説と半年論争させた。その論争を読んでいると、なるほどと自分の意見も決まってくる。色々な意見があるけど、安川さんが、自分は初等からフランスの音楽院で勉強したけれど、ピアノの鍵盤はフランス人の男を基準にして出来てる。フランス人はそんなに体は大きくないし、鍵盤は世界共通の大きさで出来ている。自分もそれで出来たから大丈夫だ、と言った。
 そういう論争が無くなった。そして啓蒙もなくなった。それから「言挙げ」する、意見を主張する、これがない。私の社で演奏年刊というのを作っているが、演奏家も増えた、ホールも増えた。いま東京で一晩に十幾つの演奏会がある。そうすると批評家の数が足らない。オペラでも評論家が同じ日に行かない。初日に行く人と、二日目に行く人と、三日目に行く人という具合だかから、同じ公演を聴いていないので論争にならない。
助川 評論家の専門別もありますね。作曲の専門家にオペラの評を頼むわけにいかない。その反対もそうですね。
中曽根 そうですね。前は大体初日に行ったもので、そこで議論が出来たんだけど同じものを聴いていないから議論にならない。
 一種の機能主義というのかな。飽和状態というのかな。演奏会があればいい、批評家は書けばいい、と、それが現状じゃないかな。私たちも反省しながら改革を考えていますが。

 音楽雑誌と評論誌の歴史をたどれば

中曽根 音楽の友社は合併されて出来た会社です。昭和十六年と十八年に。
助川 どことどこが合併したんですか。
中曽根 レコード雑誌は幾つもあったんです。「レコード音楽」というのを音楽の友社が買収して「レコード芸術」になった。顧問まで含めて、村田武雄さんとか編集者の竹野という人。日本の古い音楽雑誌で名前が「音楽世界」というのがあった。村松道弥さんが支配人やって、その前はいろんな人がやつてたけど、その前が「音楽新聞」、そして合併して「音楽文化」ともう一つの雑誌になって、それが「音楽の友」になった。先代の目黒社長は日本管楽器協会、日管の宣伝機関誌の経理マンだった。その内、堀内敬三さんが社長になって経理を目黒さんに任せた。堀内さんは外部的に忙しい人だから会長になって社長を目黒さんがやることになったんです。そこへ私が入っていったんですね。戦時中も学生アルバイトでちょっと行ったんですが。
 その時は、銀座の三越の裏の汚いビルの二階。下がカフェ。バンドが入っていて、廊下を降りていくと女給さんが連れてきた赤ん坊におっぱいを飲ませている。そんな所の二階でしたよ。
助川 それは戦争中ですか?
中曽根 戦争中です。昭和十八年かその頃ですよ。そして昭和十九年には私は兵隊にいっちゃった。当時、勝承夫とか、黒崎ヨシエ、加藤省吾という人は童謡の作詞家、そんな人たちがいましたね。その頃から第二国立劇場の問題がもうあって、村松さんも活躍した。それから著作権協会というのも、例のプラーゲ事件があった頃ですが、増沢健美さんが女性職員と二人だけでやってた。 音楽文化協会というのは音楽家を戦時中集めた機関で、戦後、戦犯論が出て山田耕作と山根銀二がやりあうことになりましたが。
 だから、音楽ジャーナリズムの問題といえば、「音楽世界」の頃からで、この雑誌は昭和十年代のものですからね。それからずっと来て、村松さんは「音楽新聞」やって途中から満州へ行って、帰って来てちょっとの間銀座で「音楽世界」「音楽新聞」をやるんですが、「音楽世界」は離れて「音楽新聞」だけが残るんです。
助川 この雑誌の前の編集長の小宮多美恵さんが言つていましたが、「音楽の世界」という名前は「音楽世界」という先輩があるんで、同じでは申し訳ないとうので「の」を入れたということです。
 そうすると、戦後、復員されて音楽の友に入られたということですが、音楽の友社が今の神楽坂に移ったのは何時頃のことですか。中曽根 一番はじめは、銀座のヤマハの隣にいまでもあるが時計屋があります。その二階でした。日本管楽器の重役室の廊下を借りてたんです。三四人しかいなかったんですから。そこへ武川寛海さんが満州から帰って来て、清水修さんが帰って来て編集長をずっとやって、私はアシスタントをやっていました。それから神田鍛冶町に社屋を作った。なんで社屋が作れたかというと、その頃英会話の本が売れたんですが、音楽の友社は社交ダンスの本を出したんです。玉置真吉という人が書いて。その本をトラックに積んで神田鍛冶町へ行ったわけです。堀内敬三さんは浅田飴本舗の三男坊で、その敷地に音楽の友社の木造二階建ての社屋を建てたんです。ところが、その玉置という人は国家破壊の人たちの中に入ってたんですね。左翼の。
 その玉置さんが、皆集まった時に「そんなに社交ダンスの本が売れてるのにダンス踊れる人が一人もいないじゃないか」って言ったんですよ(笑)。それで新しい社屋でレコードかけてタンゴとかクイックとか皆で習ったんです(笑)。
矢沢 あの頃ダンスがずいぶん流行りましたからね。
中曽根 塩入亀助という人がその間をつないでいますね、編集者として。この人は有能なジャーナリストだった。兵隊に召集されて帰ってきてすぐ死んじゃった。早稲田出の人でした。私はすれ違いで会っていませんが。
 そういう経過で、私は二十八年前にもうひとつ音楽雑誌があっていいんじゃないかというんで独立したんですが。その間、いま「音楽舞踊新聞」という村松さんがやってるのがありますが、せがれと喧嘩して二年くらい休んでたのを「もったいないお貸ししましょう」というので始めたのがいまの「音楽舞踊新聞」です。はじめは、音楽の友社にいた頃、清瀬保二と佐々木光が、新聞が一つしかないのはおかしい、もう一つ作るべきだ、と言った。それはいいことじゃないかというんで音楽の友社がおカネ出したんですよ。最初は清瀬さんが社長だったんです。それが「音楽旬報」ですよ。佐々木さんもいましたし、私の甥もいました。友社が私に、君の名前で出資してやれよ、というんで、十万円くらいかな、忘れたけど出資しましたよ。
助川 それは戦後ですね。
中曽根 そうです。友社のすぐ近くにいたんです。キャバレーのちょっと横ん所の二階です。そういう経過がありました。ただ、佐々木さんは気の短い人で喧嘩ばかりしてましたが。
助川 その時は鍛冶町ですか?
中曽根 そうです。それから、いまの神楽坂に移ったんです。
助川 いつ頃ですか?
中曽根 昭和三十年代になったばかりの頃かな。
助川 割と後の時代ですね。「音楽芸術」というのは昭和二十二年頃創刊ですね。私も中学生の頃はじめて見ました。
中曽根 そうです。「音楽文化」という雑誌が「音楽の友」になって、もう一つを「音楽芸術」にしたんです。要するに啓蒙時代がずっと続いたんです。
 沢山あったレコード雑誌がずいぶん合併したんですが、レコード雑誌がどうしてそんなに沢山あったのかというと、当時クラシック音楽と言えばナマ演奏よりレコードで聴かれたんです。SPですね。うちでレコードを聴いてクラシックが好きになったという人が多かったんですね。演奏会の数も知れてるしオーケストラだって幾つもなかったんですから。いまは九つありますからね。合併話も出ていますがね。
助川 戦後を振り返ると、戦後の復興期があって、安保時代があって、やがて東京オリンピックを経て高度成長時代に入って、その内オイルショックがあって、その後また好景気時代、バブル時代になり、これもずいぶん永く続きましたが、九十年代はいって不景気で暗転したわけですが。昭和二十年代の「音楽芸術」を見ますと、本当に元気があって活発な議論をしていますね。清瀬さんがヨーロッパをまわって帰って来られたというので、喧々がくがくの論議をしているんですね。
矢沢 「音楽芸術」と言えば、私の一年下の高田浩が編集長やってたんだからね。
中曽根 そうそう、高田さんは体の大きい人で私の部下だった。
矢沢 彼の家は大塚の山の上で、ある日彼の家に行ったんだが、その夜奥さんから電話がかかって来て、亡くなったって言うんですよ。
中曽根 私の家が巣鴨で近かったし部下でもあったから彼の家にはよく行ってましたよ。矢沢 お父さんが職業軍人でお母さんもなかなかしっかりした人だった。彼は深井史郎さんの下請けやって映画音楽の仕事をしてた。その傍ら「音楽芸術」の編集やってわけだ。
中曽根 柴田南雄さんに作曲を師事していたんだね。
矢沢 私もソ連音楽について書いたことがあった。寺原伸夫君が書くようになる前にね。
助川 それは昭和三十年代のことでか?
矢沢 そう。あの頃「音楽の世界」の前身の「音楽運動」というのをガリ版で始めた頃で、間宮芳生君とか林光君なんかが運動してた。私の知人の宮長さんとという家のまん前に間宮君の学生寮があった。その宮長さんの家のピアノを間宮君が弾いてたんだ。
助川 本郷にあった宮長スタジオの宮長さん?
矢沢 そうそうあの宮長さん。
中曽根 いま私の会社がある所は下町ですが、浅草の。この一キロ四方、カメラ屋、時計屋、駅前のラーメン屋、花屋、こういう店がクラシック好きでうちの雑誌をとってるんですよ。クラシック音楽のファンというのは数は多くないが一度好きになるとずっと続くんですね。だから専門誌としてじっくりやるべきなんで、そう膨大に数に広げようというのは無理なんですよ。専門誌としてやるということですね。
 これは東京新聞の「大波小波」というコラムですが、「水清ければ魚棲まず」、新聞社系の雑誌と出版社系の雑誌があるが、出版系の方はスキャンダルをのせたり、きわどい記事をのせる、講談社は何度も訴えられた。そして負けた。しかし、ミスもあるがハードな記事もこなして来た。ジャーナリズムの機能を果たすためにはある種のえげつなさも必要だろうと書いている。
 講談社も文芸春秋も新潮社も何度も訂正文を出している。「新潮45」という雑誌はアメリカの健康雑誌だんたんですよ。四五才から健康に注意しろというんで出来た言葉なんですよ。三年前かな、レコード批評家を散々やっつけた。
助川 ティンパニが抜けてる「新世界」を誉めたんですね。
中曽根 そう。山根銀二の家族は「演奏家に行かないで批評を書いたと」言われて「行かないで書いた」とは何事かと弁護士立てて抗議した。その結果ついに小さな訂正文が出ましたね。
 山根さんは日頃から「ジャーナリストと評論家は、お菓子と酒は貰ってもカネは貰うな」と言っていました。
 ある日、山根さんの家に、ある声楽家が来てお菓子折りを置いていった。ところが開けてみるとお菓子の下に一万円札がぎっしり入っていた。山根さんは北鎌倉まで追い掛けていって返したそうです。そういう無茶なことをやる演奏家がいて、それで山根さんは演奏会が嫌いになっちゃったんですね。
 芸術祭というのは五、六人の審査員が居て、参加公演を聴いて審査するんですが、一人の審査員が公演全部に行かなくてもいいんです。手分けして行けばいいんです。ある年、ある声楽家が参加公演をしたのですが、山根さんは「あんなものに賞を出す必要はない」と彼らしく言った。ところが、別の審査員は手分けした中で「山根さんはその公演に行かないで評価した」と批判したんですが、永い間批評をして来た見識だからそれでもいいという意見もありました。
 要するに、昭和十六年から戦中戦後のことは、山根銀二、野村光一、園部三郎、などのボスたちが支配していたんですね。権威と強さね。だから有名な話で、東京新聞の夕刊が出ると演奏家は駆け出して買いに行ったと言われたものです。山根さんの批評を読むためですよ。でも山根自身さんは、新聞社に出掛けて行って自分の原稿の校正までしたというんですから熱心だったんですね。
 力のある強大な評論家が引っ張っていた時代なんですね。その後、大木正興とか木村重雄などが出て来るわけです。当時は演奏会と数も少ないし批評家の数も少なかったですからね。
矢沢 あね頃の評論家はそれなりに個性がありましたよ。一人々々も、山根と言えばベートーヴェン、園部とと言えばショパンとか、それぞれの専門があったり、野村さんはアカデミックな見方の人だったり、この人ならこう書くだろうな、という納得の仕方が出来たんですね。
助川 野村さんはピアノを散々聴いてきて、食通みたいなんですね。お寿司の評論家みたいなもんで。学問知識より経験で判断するから。
矢沢 いまは楽理科的な小型の学者みたいなのが増えた。
中曽根 演奏の批評も研究分析型になってきた。それで批評といえるかですね。そうでない批評を「印象批評」だと言うんですよ。
助川 それとは別に全体にひどく権威主義的ですよ。えらい人には逆らわない的な。えらい人を批判すると後難がある、損する、しない方が得だというわけですよ。
中曽根 いましかし演奏家の大物もいなくなったと思いますがね。たとえば指揮者でいますかね。朝比奈、岩城、小澤に続く世代で大きいのがいない。
矢沢 その点では音楽家だけでない。文学も演劇も美術もそうですよ。
助川 政治家もそうですね。

 むかしの総合誌はおもしろかった

助川 ところで、雑誌のあり方についてですが、私がまだ大学に入る前、汽車の中で読むために売店ではじめて総合雑誌というものを買ったんです。当時、岩波が出していた「人間」です。さぞかし難しいことが書いてあるだろうと思ったんですが、ほかに読むものがないので買った。ところがこれが意外に面白いんです。あんまり面白くて下宿に帰ってからも読んでましたよ。テーマが難しくても読ませる面白い雑誌は出来るんですね。
矢沢 あの頃は面白い雑誌が沢山あった。 「新生」なんてのも面白かった。「世界公論」というのもあった。
中曽根 私もジャーナリズムの一端を担っている以上責任があるんだが、何かの形で論争、言挙げが必要ですね。評論家だけでなく演奏家も小粒になったな。
 それでいて、この間調べたら、この十一月に「第九」の演奏会が幾つあると思いますか。百三十八回ですよ。プロ、アマ、全部含めてだけど。指揮者は、秋山和慶が九回、小林研一郎が七回、ソリストは重なってる。十一月八日から十二月三十日までの間。この前、うちに来ていた大工さんが少し音楽が分る人で、「ずいぶん第九をやってますが、外国でもそうなんですか?」って聞くんでよす。だから、そんなことはないって言ったが、暮れにやるのは日本だけ、別に悪いこととは思わないし、それをきっかけに音楽が好きな人が出来るのはいいことでしょうが。
助川 漢字の当て字が出来てるそうですね。「ゲッテルフンケン」を「月照糞犬」、「フロイデ」は「風呂出で」(笑)。
野口 しかも、その発音でドイツで歌ったら誉められた(笑)。
中曽根 なにしろ大勢の合唱が出るから券も売れるし、合唱の父兄も来る。
矢沢 合唱やオーケストラの経営上の目的もある。いいことじゃないですか。
助川 しかし、なんか大仏のご真体に触れるような所があるな。

 戦後の時代からいままで

助川 戦後、昭和二十年代の頃、いまの東響、東京交響楽団、当時の東宝交響楽団が定期公演で必ず一曲、内外の初演曲を入れるということをやってましたね。玉石混淆だったけど、ともかく当時は情報に飢えてたんですね。戦争で鎖国されてたから。その内に日フィルがスターシステムで有名な作曲家に年に数度だけ作品を委嘱するようになって東響の方はやめましたね。もうそんな時代じゃないというので。それでも東響のあの企画で世に出た作曲家がずいぶんいましたね。間宮さんが「ピアノ協奏曲」でデビューしたのもそうだし、池野成さん、私たちの同級だった篠原真君など、皆そうです。
 それから、昭和二十八年頃、柴田南雄さんの家に集まって十二音音楽の研究会がありました。映画音楽の作曲家とか山本直純君なんかも来た。当時は、浪曲や子守歌まで十二音になるという風説が出回ったから(笑)。皆心配したんですよ。まあ、そうでもなさそうだということが分って来なくなった人たちが多かったけど(笑)。
中曽根 私がはっきり覚えているのは、文化放送の六階で、大木正興なんかがプロデュースやってて黛敏郎さんがチャンス・オペレーション、偶然性の音楽というのをやったんですよ。爆音とか街の騒音とかを入れてるわけですよ。そしたら、牛山充というご老体が居て、立ち上がって「こんなものは音楽じゃない帰ります!」って帰っちゃった(笑)。そういう急進的こころざしというのもなくなりましたね。
 三大テノールの券が七万五千円ですよ。そういうのに行く人がいる。
助川 それと、若い者が妙に人の顔色を見るんですね。「ここでそれを言っていいんですか」とか。三十才代くらいのがですよ。年配の者がそう言って「若い者が、なんですか、そんな妥協的なことを言って!」て言うんなら話が分かるんですが、その反対ですからね。
矢沢 期待される人間像なんてのからそういう若いのが出来てきた。
助川 「十二人の怒れる男たち」のあの心意気ね。たった一人で、俺はそう思わないっていうあの独立精神ですね。
中曽根 四十才、五十才、の男たちが劇画読んでるんだもの。でも、ある人が言った「その方が政治がやりやすい」って。不景気と言うけど、いま、個人はおカネはあるんですよ。消費が進まないだけです。
助川 全くその通りです。おカネがないわけじゃないんだけど、将来に不安があるんですね。銀行のお金がどうなるか分からない、年金はどうなるか分からない。だから、カネはあっても使う気分にならないんですよ。それに必要なものはすでにあらかた買って持ってるしね。
中曽根 そう。それと、いま子供の数が減っている。だから、子供のための教室というのが困っている。音楽学校にい行く生徒も減ってしまった。音楽大学もいま経営危機で学生を集めなければならない。
矢沢 アメリカの大学でも企業から資金を集めて来る者が教授になっていまう習慣があるけどね。
中曽根 アメリカでは助成金制度が強力に出来ている。大企業が音楽にお金を出さないと批判されるんですね。IBMで一日テレビを見ている者がいる。IBMが文化にカネ出さないといって批判されていないかどうかチェックしてる。どこの企業が、ブロードウイエのミュージカル、ニューヨーク・フィル、メトロポリタン・オペラにお金を出したか新聞に出るんだから。
矢沢 これはカーネギー・ホールのプログラムだけど、最後の所に協賛でお金を出した団体企業の名前がこんなにのってる。
助川 すごいね。
矢沢 個人あり企業あり団体あり。
中曽根 未亡人がメトロポリタンに来て、亡夫が好きだったオペラをやってくれって言われて、やったそうですよ。
 それに各州にオーケストラがある。どこの州が一番クラシック、オーケストラにお金を出したかベストテンを選ぶんですね。ベストがなんとニューオルリーンズだそうですよ。ジャズ発祥の地でね。
矢沢 この名簿の「ゴールデン・サークル」という欄は一番資金を出している所で十万ドル出してるんだからね。しかも毎年だ。
中曽根 決定的なのは税制が違う。寄付は優遇されますからね。
 司馬遼太郎と山本七平との対談の中で山本さんが言っていますが「それにしても、イデオロギーというものを信用しないという面があるんじゃないですか。日本人は全体に。というのは、本当にイデオロギーを主張して世界が変りそうになると慌てずそっちを引き止める。六十年安保の新聞論調みたいに、これで本当に世の中が引っくり返りそうだと思ったら、今まで言っていた方が引っ込めてしまう。そうすると謡曲の『高砂』の『四海波静かにて』という具合になってしまう」。
 そういう”ぬるま湯社会”ってのが日本なんだな。
矢沢 だから、真剣味が何事にもない。
中曽根 それが互いのバランスになってる。助川 それで今まではやって来れたんでしょう。気候風土のいい所で穏やかに暮らしていけたから、人と争わず波風立てずにいく人が歓迎されるし、そういう社会が出来ちゃったんでしょうね。

 論争議論がなぜ消えた

助川 話を評論に戻しますが、さきほどから中曽根さんが、自分の意見を言挙げする気風がなくなったと言われていますが、文壇では井上靖、大岡昇平、松本清張という大家たちが堂々の論争をやっています。最近の音楽評論家たちの無気力はどうしたことでしょう。 武満徹の音楽は立派なものと私も思うが、そのことと、彼の美学をどう位置付けるかということ、そこに有るものと無いもの、そうした美学思想的判断は誰かが当然やるべき仕事でしょうに、なんにも出てこない。怠惰なのか、頭がわるいのか、無気力なのか、そこまでも気がつかないのか。昔にくらべて数だけは増えているのに当たり前のことをする人がいない。日本の作曲家を専門に研究している学者もいる。こういうことは評論家ではない学者であっても当然研究対象にすべきことでしょうが。
中曽根 評論家は昔のボス時代はわるい点もあったが、楽壇を引っ張ってくだけの力量があった。それで叩かれてひどい目にあった人もいるけれど、力もあれば責任感も持っていた。
助川 エイラ人には批判は向けず、人の顔色ばかり見てる。いまの人は。国立オペラ開場の「タケル」の初演でブーイングが出たことも大分たって他人が言い始めてから少しずつ言及し始める。卑劣な腰抜けです。
中曽根 小粒になったからですかね。
助川 吉田秀和さんとか遠山一行さんたちの世代が批評家と言える最後でしょうか。
中曽根 吉田さんの評論もどちらかと言えば若い時のものの方がよかったけどね。
 昔、文化放送に「音楽時評」というのがあって、山根銀二、野村光一、園部三郎、それに遠山一行が入った。野村さんは銀行筋の人で、遠山さんは日興証券の人だから、野村さんが遠山さんを引っぱり上げたんですが、山根さんと野村さんが大喧嘩を始めてナマ放送なのに山根さんが席を立って出て行こうとした事件がありました。それを遠山さんが一生懸命なだめてる。なにしろナマ放送だから消せないんですよ(笑)。
 こうしたボスたちが一番この野郎と思ってたのは吉田さんでしたね。文章力からいったら吉田さんの実力はすごいから。
中曽根 ここに資料があるが、アメリカと英国の論壇は今どうかというと、書評雑誌というのがすごいらしいですね。そして、著者と書評した評論家との論争がすごい。あのキッシンジャーが三千語におよぶ反論を書いてる。
助川 日本は無風というか無葛藤というか、経済的繁栄が永すぎましたかね。
中曽根 そういう意味では「中央公論」の果たした仕事はあるリーターシップを持っていましたね。あの雑誌が読まれなくなったということは日本人がおかしくなったことの一つの表われかもしれない。あれは戦時中からありましたからね。
助川 「世界」というのは岩波ですね。あれはまだありますね。赤字でしょうが、ほかのもので補ってるんでしょうね。

  音楽の友社と全音楽譜社

矢沢 音楽の友社も同じですよ。音楽の友社は雑誌が主な商品で、音楽書、単行本ではもうからない。返品が多いでしょう。
中曽根 戦後、音楽の友社と全音楽譜社の代表者が堀内敬三を中にして天婦羅屋で話し合いをして、私も立ち会いましたが、音楽の友社は雑誌と単行本、全音は楽譜、ということで協定したんだす。
 ところが全音が「バイエル」の検印を偽造するという事件があったんです。新聞にも出ました。それで平田バイエルというのが音楽の友社に来て、それから音楽の友社も楽譜を出し始めたいきさつがあったんです。私が独立してから一年ほどした頃、全音の先代社長が私を呼んで「あの協定を君も知ってるだろう、だからうちは雑誌をやらなかったんだが、しかし、君がやるんならうちで協力しよう」と言って協力してくれましたよ。一時は私の所が全音の創業社屋にいたことまありました。
矢沢
 「新興ミュージック」は著作権使用料でやってる。ビートルズの使用料の権利を持ってる。
中曽根 アメリカでも出版社がポピュラーの著作権をもってる。だから、レコードが売れるとお使用料が入って来る。全音も始めは印刷屋だった。「新興楽譜」といった。その頃の流行歌は著作権契約すると演奏権も入ったんです。それを全音は独占してた。古賀正雄とか中山晋平とか、みんなあそこが持ってたんだから。初代の島田社長は風呂敷かついでコロンビアのスタジオのまわりに居て、服部良一なんかが出てくると、この曲を契約しろっていうんです。そまことを創業何十周年かのパーティで服部さんがスピーチで言ったことがありました(笑)。今は出版権はあっても演奏権を独占することは出来ません。
 ただ、全音は最近、四人組といわれる日本の作曲家を独占契約しましたがね。
矢沢 全音は旧ソ連の作曲家の権利を持ったからあれで業績あげるでしょう。
中曽根 アメリカの書評では現代音楽の論争もやってます。
助川 現代音楽の世界もマルクス主義の崩壊と連動して、将来への展望が出来なくなってますね。
 批評というものも、意気地がないのもいけないが、乱暴なのもいけいと思うね。活字は権力だし凶器にもなる。昔、無調でないとだめだとか、前衛的でないとだめだ、というので、散々作曲家を罵倒した批評家がいた。あの人たちは日本の作曲を随分ゆがめましたよ。作曲家というのは創作の過程では本当に孤独なんで気が弱くなってるもんですよ。ドビッシイみたいな人でも批評でなんか言われて曲の一部を書き替えてしまったことがあるそうだから。
野口 演奏は後で残らないからもっと反論が出来ないですね。録音が残ってるといっても本番と録音ではやはり同じではない。だから、ラーメン屋の品定めの方が音楽批評より健全だという人もいる。あそこのラーメンはうまいぞ、と言えば、そこへ行って検証することが出来る。
助川 三善清達さんのオペラ批評は具体的で印象批評にかたよらず技術批評におちいらずなかなかいいと思いますが。
矢沢 あの人はNHKに居た時、イタリア・オペラを担当していたからよく知ってるんだよ。
助川 昔のNHKは専門職制度で見識知識錚々たる人たちが揃ってましたね。なまじな評論家なんか足元にもよれない顔触れだった。いまは、NHKも専門職制度でなくなったから何でもやらされる。相撲の放送やってた人が次に音楽の方をやらされる、みたいな方式ですよ。
矢沢 それはNHKに限らず、どこもそうですね。レコード会社の若いディレクターも。

 論議をおそれぬ批評

中曽根 はじめに戻るけど、議論、論争、言挙げのない社会に健全さはない。演奏家も作曲家も評論家も、自己主張をはっきりして、自分の言い分を打ち出さなきゃならない。それが妙な温暖主義になってる。それが、いまは、芸術に限らず、経済も含めて日本の体質になっている。需要供給がうまくいってればそれでいいじゃないかという。それ以上、他人とことを構えて乱を起こすことはない、異論を立てることは人を傷つけることみたいな感覚を持ってる。主張しない。このことをなんとかしなければならないとか。
 だから、政治が悪い、経済が悪い、と言っても、飲み屋で気勢あげるくらいのものでそれ以上何をするわけでもない。選挙にも行かないのもいる。
矢沢 マクロ的に言えば、日本の音楽界をどう、どういう方向に持っていくかとうことを提起するのが評論家批評家の仕事と思います。そういう見地から現在のものを否定したり肯定したり推進したりすることが仕事でしょう。その中に雑誌の読者や音楽会の聴衆を巻き込んでいくのことで日本の音楽界全体をよりよくしていくのが仕事でしょう。
助川 批評家は聴衆の意見を代表していなければならない。ヘンな音楽を聴かされて嫌な思いしている聴衆が沢山いますよ。でも普通の人は投書するくらいしか出来ないし、文章書くのが苦手の人もいる。あるいは、自分は専門家でないので修業が足らないのかと自信がなくてためらってる人もいる。そういう人のために声を上げるのが批評家の役目でしょう。
矢沢 文章に説得力がなければならないですね。その文章を読んで、ヘンに聞こえた音楽が何故ヘンなのかその理由がよく分かったというようにね。
野口 それは前から何度を言われてることですし、わが誌の編集会議でもよく出る話ですが、そういう批判をしても、された方が、なるほどと言って改める気配を見せるわけでもないし、無力感みたいなものも感じる根深いものがあるんじゃないですか。悪いものを悪いと正論で訴えても厚い壁のように阻まれる。訴え方にも何か日本独特のやりかたみたいなものが必要なねかなとも考えることがあるんですね。
矢沢 私はそれは違うと思うよ。日本人のキャラクターを変えなければならないんだから、正論は正論であくまでばりばり荒療治でやるべきだと思う。
野口 荒療治で?
矢沢 荒療治で!あなたが言ったような考え方をするから、自己規制してしまって言論が沈滞してしまう。
野口 私たちの仲間の中ではそれは通じるでしょうけど、大衆、マスに向かって語りかける時はどうしたら話が通じるかはまた考える必要があるんじゃないですか。
矢沢 工夫と勉強は常に必要ですよ。でも、正論は正論なんだから、それはあくまで曲げてはいけないね。
野口 もちろんウソを言ってはいけないですけどね。自分が犠牲になって、死して後稔りが得られるくらいの覚悟で必要かもしれないですね。

 「新潮45」の批評

助川 「新潮45」の八田利夫という評論家は面白いですね。もちろん偽名でしょうが。
野口 中曽根さんは、名を名乗れと書いていましたね。
中曽根 もう分っていますよ。皆知ってる人ですよ。そもそもあの人はヤマハの宣伝部に居て、テレビ局に入って、それから独立して「呼び屋」やってたんですよ。
助川 というと、別の所ではおとなしく書いて、八田の時だけああいうふうに書くわけですか?
中曽根、野口 そうそう。
中曽根 ああいうことをやれば分りますよ。東京新聞のコラムもあの人が書いてるんですよ。
助川 音楽のことをよく知ってますね。
中曽根 あの人はモーツァルトの本を翻訳してるもの。ドイツ語系の専門家ですよ。だけど、私は言ったけど、それだけ書くなら名乗れって。ずるいのは東大出の評論家にはろくなのが居ない、と書いて三人の名前を上げてるんだけど、その中に自分の名前も入れてる(笑)。
助川 ティンパニが抜けた「新世界」を誉めた批評家を槍玉に上げたのは面白かったですね。
中曽根 最近は、レコードのジャケットの解説をまる写ししたやつを叩いた。実名をあげて。それでその評論家は乾された。
助川 それは社会的制裁で当然でしょう。
中曽根 それからもう二年たったからもういいだろうというんで私の雑誌ではカムバックさせてますがね(笑)。
矢沢 それじゃ「音楽の世界」にも登場してもらうか。
助川 実によく事実関係を知ってるからね。中曽根 あね人は、呼び屋やってる時、「音楽の友」で今年来た外来演奏家ですばらしいのを上げろという質問を出したら自分が呼んだのを書いた(笑)。
 ドイツでは批評家がある声楽家を批判して、パトロンがいけない、と書いた。そしたら、そのパトロンから訴えられた。それで二ヵ月刑務所に入ったですよ。
助川 謝罪広告出すくらいなら牢屋に入るという判断もあるでしょうね。
 批評についてですが、編集者側の責任として、元気のいい批評を書いてきたのに、過激過ぎるからと書きなおさせたり、そういうことをやってはいけないですね。
中曽根 もちろん。それはいけない。ただし、人権無視したり無礼なことを書いたり、そういうのはだめですよ。
 昔「サンデー毎日事件」というのがあって、演奏家を片っ端からやっつけた。男女関係まで摘発した。安川加寿子、井口基成、園部三郎、とか言う人たちが毎日新聞に押し掛けたんです。それがきっかけになって演奏家連盟が出来たんですよ。私が今度出す本にその事件のことが書いてあるから読んでごらんなさい。

 雑誌も音楽と同じ受けとり手を忘ずに

助川 そろそろ結語に入りますが、雑誌も音楽と同じで、聞き手を無視した音楽が自滅するように、読み手を無視した雑誌は自殺的結果に行きつくと思います。読み手に迎合するにではなく、つねに読者が何を求めているかを考え、そして根底的に、体制に対して検証を加える精神と姿勢をつねに忘れないことが肝要かと思います。批判の心こそ雑誌ジャーナリズム原点であろうということでしょうか。今日は出版界長老の貴重なお話永い間有難うございました。

 

(ホームページ図書館のメニューに戻る