中国の女性ヴァイオリニスト 劉薇さんに聞く

馬思聡の作品をライフワークにして
   

聞き手 編集長 助川 敏弥、 評論 道下 京子
                               

 劉薇(リュウ・ビ、英語で、Liu Wei)さんは、一九六三年中国の蘭州生まれ。幼い頃から父親の啓蒙でヴァイオリンを学び、西安音楽学院ヴァイオリン科卒業。中国国内で幾つものコンクールに入賞、一九八六年来日。桐朋学園大学で江藤俊哉氏に師事。一九八九年に東京芸大大学院に移り、浦川宣也氏にヴァイオリンを師事する一方、中国の近代作曲家、馬思聡の研究にとり組んだ。馬思聡は一九一二年に生まれ、一九八七年にアメリカで客死した近代中国の作曲家。パリ音楽院でヴァイオリンをイザイの高弟ブシュリに学び、作曲を当時フリーの作曲家、パリで活躍するビナンボームに習得した。ヴァイオリン曲はじめ、あらゆる分野の作品を創作し、西洋の本格的技法と中国民族音楽の要素を成熟した技法で総合した中国近代音楽を主導する大作曲家である。周恩来の招きで北京中央音楽学院の院長に招かれ、新中国における西洋音楽の指導者として頂点の地位にあったが、文化大革命で学術的権威者として追放され、フイラデルフィアで失意の内に客死した。のち名誉は回復されたが、その作品は一時演奏も禁止される運命にあった。劉薇さんは、馬思聡の作品を収拾研究し、世界に紹介することをみずからの使命として全力をあげている。
 劉さんは、一九九九年、博士論文「ヴァイオリン演奏家・作曲家としての馬思聡研究」と馬思聡作品の演奏によってヴァイオリン分野ではめずらしい博士号を受けた。昨年、十二月十一日、東京カザルス・ホールでリサイタルを開き、当日は入場できない人たちが空席待ちに並ぶという盛会で、大きな成果をあげ一躍注目を受けるようになった。当日の曲目はフランクのソナタ以外すべて馬思聡作品で構成され、この作曲家の仕事がはじめて日本に紹介された。劉さんは今後も馬思聡の作品を研究し世界で演奏することをライフワークとしている。

助川 リサイタルの成功おめでとうございました。いや、よく人が入ったのに驚きました。いま東京で音楽会を成功させることはなかな大変な時代で、個人のリサイタルでは席を埋めることは難しいですからね。
 おかげさまです。九月、十月頃には全然券が売れていなかったのですが、十一月に入ってから売れ出しました。これまでの馬思聡作品の演奏の成果が幾らかあったことと、お友達が応援してくれたこと、それと日本経済新聞の十一月二九日に私の紹介が載ったこと、そんなことが力になったと思います。最後の二週間は毎日券の申し込みがあってお断わりする状態になりました。そんなことで、今年追加公演することにしました。

 ヴァイオリンとの出会い

助川 劉さんは西安音楽院のご出身ですが、お生まれは蘭州ですね。蘭州は西安よりもっと西の街ですが、ヴァイオリンとの出会いはどうだったんですか?
 一九七〇年代の始め頃ですね。私がまだ八歳くらいのことです。
 父親がとても音楽好きで、若い頃は声楽家になりたかった人でした。ソルフェージュとか楽理のことを幾らか知っていて、アコーディオンも弾きましたし、胡弓も弾いていました。その父が歌を教えてくれたのです。
助川 それは、西洋音楽の方ですか、それとも民族音楽の方?
 父は声楽家を志望したくらいですから西洋音楽ですね。父はもともと東北地方の出身で、あそこは元の満州ですから日本人やロシア人が沢山いて西洋音楽に触れたのでしょうね。
 そうして歌を習いましたが、まだ子供で変声前ですから、歌はどうも適さないので器楽をやらせたいのですが、私が育った頃は、音楽会もないし楽器も手に入らない頃です。その頃、会社に楽団、バンドのようなものがあって京劇の中の歌を歌ったりしていたのです。父はそれに関わっていたんですね。そのバンドの人で十数年前に知っていた人がヴァイオリンを持っていたことを思い出して、父はその人を尋ねて汽車を二日間くらい乗り継いで会いに行きました。
 そして、ひどく古いヴァイオリンを持って帰って来ました。ところが、それは大人用の大きな楽器ですから、父はそれをお風呂場で糊をはがしてノコギリで切って、また、はり付けて子供用の楽器を作ったんです。
助川道下 よくやりましたね!
 またよく糊がはがれるんですよ(笑)。
助川、しかし、フレットは切らなければならないでしょう?
 それがどうだったか忘れましたが、少しは切ったんでしょうね。しかし、弓はどうしようもないから(笑)、長いままで、印を付けてここまで使うということにしました。
助川 弦はどうしました、切れた時は?
 弦も売ってないですよ。だから、バンドの人で持っている人から貰ったり、切れたのをつないだりしましたね。
 それで、バンドの先生に半年くらい習いましたが半年くらいで、これ以上は自分には教えられないと言われたんですね。
助川 それは八歳くらいの時?
 八歳の時です。それから別の先生に紹介されて、そこも半年くらい。それから、もっといい先生に汽車で三時間くらいかけて習いに行って、そのほかに父も教えてくれたんです。その時は西洋の曲を余り弾いてはいけないので、弾く曲がなく、父が編曲してくれた曲を弾いたこともあります。何曲か編曲してくれました。その先生はとてもきびしい先生でしたけど、そこには六年間くらい十三才か十四才まで、日曜日には汽車に三時間乗ってレッスンに通いました。車掌さんも顔を覚えてくれて、ときに弾いたら乗車券をただにするということもありました。楽譜がなくて、先生から借りて父が写譜しました。パガニーニのカプリスまで父が手で写しました。父はその内に写譜用のペンまで自分で作ったり。電気もよく止まるし。なにしろ楽譜は売ってないから次から次に借りる人が待っているんです。
助川 その頃は教則本はなんでした。日本ならホーマンとかカイザーとか使うけど?
 ホーマンもカイザーも使いましたね。それからロシア系のものが多かったですね。

 馬思聡作品の豊かさ

助川 この前のリサイタルで馬思聡の曲を聴いて、民族的方法をとりながら、日本の一部の民族派の作曲家のようにせまい所に閉じこもらないで、西洋の和声の豊かなものはどんどんとり入れていくことに感心したんです。民族音階は大事だけど、それだけで全部作ろうとするのは無理ですね。
 そうですね。馬思聡の場合は、中国の民謡を方々の地方からとり入れて作曲するんですが、私が研究した所では、中国音階をとり入れると三度の和声よりも四度、五度の和声が出来やすくなっていきます。
助川 当然ですね。
 しかし、四度、五度でありながら、同じ音が繰り返されることがないように作られているんです。平板にならないよう綿密な工夫がされているんです。彼はパリ時代、和声について豊かな勉強をしていますが、パリ時代の先生はブルガリア系の人で、西洋の禁則からはずれた方法もどんどん奨励したんでね。彼自身もそうした大胆な方法を積極的にとり入れています。旋律は中国だけど和声は本当にあらゆるものをとり入れています。同じものが二度出ないように工夫されているので、今度のCDの録音の時にも、旋律は繰り返され、二度と同じものが出ないから編集で前のをも一度使おうとしても使えないということがありました。繰り返しに見えて同じ和声であっても音の配列が違うようになっている。内声が微妙に操作されていたり。
助川 本当に大切なことは、三度か四度かという技術のことではなくて、和声の真の豊かな響きとはどういうものか、という根本を知ることでしょうね。馬思聡の曲にはその真の響きがあると思いました。私は、アメリカに行ってからの作品に西洋近現代の半音階的な要素も入ってきて、その方がさらに深みがあるように思いましたね。

 馬思聡作品収拾の労苦

道下 馬思聡の作品が世界に散らばっていたということですが、その収拾整理はどうなさったんですか?
 論文を書く以上は避けられない作業ですね。
 馬思聡の場合は文化大革命の時に、楽譜もレコードもすべて焚書されたんです。焼かれたんですね。だから、ある機関に問い合せても余り無い、あってもボロボロで現地でしか見れない。番号の整理もされていない。まず公的機関に行って調べますが、Mの項目を見ても彼の名前はほとんどの場合載っていない。文革で批判された時消されたんです。文化大革命の前に出版された辞典を見ると、馬思聡の所がまっ黒に消されてるんです。
助川 日本が戦争に敗けた時、教科書を黒く塗ったのと同じだ。
 馬思聡と親交のあった人を尋ねて、自分の所にはないけど誰かさんの所にはあるかもしれないと言われて、またその人を尋ねて行ったり。一つありますよ、と言われてやっと手に入れたり。皆政治的に怖くて持っていないんですね。たまたまあっても不完全だったりパート譜はあっても伴奏譜がなかったり、それを借りてコピーしてすぐに戻しに行くとか。
 彼の遺族も亡命した時あんまり持っていなかったんですね。手荷物以外何もないんですから。
 私も何回も国に帰って調べたんですけど、北京も上海も西安も地方の街も、手紙を出して本当に信頼できる人に馬思聡のこれこれの曲がそちらにあるそうなので、いついつまでに調べてほしいと、それは何版なのかとか、そういうことで十数年奔走しました。調べている内に、これはもしかしたら台湾にあるのかな、とか、彼は亡命した後台湾によく演奏旅行に行っていますから。台湾の国立公文図書館の住所を調べて手紙を出してリストを送って貰ったり、芸大の論文指導教授が台湾に行った時持って帰ってくれたり、その結果、これこれがここにあると分かったり。そういうふうに少しずつ情報を集めました。なにしろ、方々に分散していますからね。楽譜資料の収拾のほかに、作品のこれがここに当るのかという確認が大変でした。
助川 作品表はあるんですか?
 全作品表はないんです。ヴァイオリン作品リストというのもあるにはありますが、年代を間違っていたり、曲名を間違ったり、出版社を間違えたり、原資料が確かめられてないんです。だから、今回全作品表を作ったんです。馬思聡研究に重要な礎石としてのものを残したというか、情報を集めて整理することから始めたんですね。あらゆる情報を集めて三、四十頁の作品表が出来たんです。創作年代、初演年次、演奏時間、場所、とか。
助川 歌曲もあるんですか?
 歌曲も沢山あります。
助川 それは中国語ですか?
 中国語です。オペラもあります。バレエ音楽もあります。交響曲も二曲あって交響詩管弦組曲もあります。
助川 その楽譜が中国の国外にあるんですか?
 国内と国外の両方です。北京は彼の本拠だったけど、それだけ一番徹底的に抹殺されたから、地方とか個人とかが持っているんです。いまは私が一番集めて持っています。
助川 外国に行っていたのもありましたか?劉・アメリカとフランス、それに台湾、香港にありました。一番よく集められて、ある程度整理されているのは台湾ですね。
助川 フランスにあるというのはフランスにいた時代の作品でしょうか?
 作品だけではなく、これまで誤っていたパリ時代の事実、知られていなかったことも色々調べている内に分ってきました。パリ音楽院を何年に卒業して教授は誰だったかというようなこと、これまで誤っていた事実を調べて証明できました。また、いままで知られていなかったことも色々調べている内に分ってきました。
助川 フランスにはフランス語の手紙を書いたんですか?
 フランス語ができる友人に手紙を書いてもらって、その人がフランスに行った時に古文書センターに行って調べてもらうという手順をくりかえして、一つの問題を三年も四年もかかって片付けるという具合でした。最近、私が学位論文を出してしまってから、またパリの古文書センターから資料が来て、馬思聡が在学時代の成績表、在学中に演奏した曲を先生が批評したコメントが書いてあるものを送ってきました。こうしたことは遺族の方も分らないんですね。
助川 作品はアメリカにも行ってたんですか?
 アメリカには二十年居ましたからね。晩年のものはね。遺族とも電話で話ができましたし。一つの問題でも解明するのに時間かかりますね。
助川 馬さんの霊が劉さんに訴えているのかもしれませんね(笑)。
 それはわからないけど(笑)、でも、カザルスの時もそうだけど、人に喜んでもらえるということが今度のCDの制作にも繋がったんです。
助川 カザルスのリサイタルの評を二月号に遠田さんという人がこの雑誌に書きましたが、あの中で遠田さんが、中国語の「四声」というイントネーションのあり方が馬思聡の作品の演奏にとり入れられているのでは、ということを書いていましたね。その点はどうですか?
 その通りです。ポルタメントの使い方がね。素材に民謡を使っている場合、民謡には必ず歌詞があるし、その発音に「四声」が出て来るのは当然ですから。

 中国における西洋音楽の受けいれ

助川 私が一番関心があるのは、われわれ東洋人共通のことですが、音楽と限らず西洋の文化が、文学も美術も学問も、中国にはどの程度、どういう形でどういう経路で入っていたんですか?ベートーヴェンの音楽のレコードがどこかで鳴っていたとか。
 西洋音楽が一般に広がってきたのは阿片戦争以後ですよ。
助川 阿片戦争はいつ頃でしたかね。
 一八四〇年ですね。でも、それ以前に宮廷だけで広がったものは一般庶民と無縁でした。もっと後になって、一八七九年頃には上海にはオーケストラが出来たり、外国人の間で広がったんです。
 租界が広がるにつれて音楽も盛んになって一九〇〇年代の始めには極東地域で一番のオーケストラ「上海工部局管弦楽団」が活躍していたんです。
助川 そこで中国のインテリ階層の人たちは西洋音楽を聴くことが出来たんですか?
 もちろん聴くことが出来ました。ラジオでも放送されたし、上海のこのオーケストラは年間二〇〇回以上の演奏会を開いて、ベートーヴェンはもちろんあらゆる西洋の音楽が演奏されていましたから。それが段々中国人の中にも浸透していきました。上海に行けばそういうものに出会えるという状況だったんですね。
助川 レコードはどうでしたか?
 レコードも、西洋のものは全て入っていましたね。楽器も。オーケストラは上海だけでなく、沿海都市、例えば、ハルピン、天津、青島、などの都市にも、それぞれ相当程度の高いのが存在して活動していました。それが中国の西洋音楽の普及に大きな役割を果たしたんです。
助川 そのメンバーはロシア人とかその他の西洋人とかですか?中国人は入っていたんですか?
 中国人も一九二〇年代後半になってから入るようになったんです。その人たちが教えたり習ったり、現地の音楽学校に進んだりする人たちも出て来たわけです。外国人の音楽家も、ヨーロッパで一流の人や亡命したロシアの人たちが音楽の普及に貢献しました。

 民族音楽と西洋音楽

助川 そこで大きな問題ですが、日本では明治維新の時に日本古来の伝統的音楽をほとんど捨てるようなことをして、音楽教育は西洋音楽に一本化する方針をとったわけです。ようやく最近になって、そういう行き方に反省の声が少しずつ出てきているんです。中国の場合はどうなっているのでしょうか。音楽だけでなく文化全般にわたってですが。
 中国では、西洋を受け入れない方の勢力が強かったんです。歴史の流れの中で閉鎖してきた時代が清の時代で終って、急に受け入れることになった。しかし、西太后の時代に西洋受け入れ派の李鴻章という大臣がいましたし、宮廷の中では西洋を積極的に受け入れる運動があったんだけど、それは「洋務運動」と言い失敗するんですね。心情的に西洋に憧れはあるけど受け入れない。
助川 その辺は日本人の心情も似たものがありますね。明治になっても電線の下を通る時は扇子で頭を隠したという人もいたそうだし。いまでもいるかもしれない。
 清の時代に中国では髪を長く後にのばして三つ編みにした風俗があったけど、それを切ることによって西洋を受け入れることを意味することがあったんですね。
助川 日本のチョンマゲですね。西洋との付き合い方が日本とは少し違いますけどね。
 それで、宮廷の中で反対の人が多くて、その人の改革は失敗したわけね。だから、民族主義というか排他主義というか、そういうものになって行ったんですか?。
 そうなんです。運動も何度か起こって、結局は敗れてしまうんですね。インテリはまだ少なかったわけだから。一九一九年の、新しい文化を受け入れる「五四運動」も保守的な力に負けてしまうんですね。
助川 西洋に随分侵略されていながら、それでいて西洋を拒もうとした、むしろだからかもしれないが。中国にとっては西洋は常に敵だったわけですね。日本の場合は敵でなかったから、かえってややこしてことになった。劉・租界が出来て、しかもそれがどんどん拡大されたため中国人の反感を呼んだんですね。
助川 にもかかわらず西洋文化に対する憧れはある。西洋に対する感情も複雑ですね。
 そうですね。だから今でも、中国には民族古来の楽器と西洋の楽器が同時に両方存在したり、両方の楽器を同時に使う音楽が出来たりということになるんです。
助川 日本の和洋合奏みたいなものですかな。すると、西洋音楽の楽器と中国音楽の楽器が対等の関係で教育されているということですか。
 ずっと摩擦しあって来ているんですよ。文化大革命もそうだけど、西洋を排除するか認めるかずっと続いている。
 文革以後は西洋音楽を認めるようになりましたが、それでも日本に比べると民族的なものをずっと強く認めるあり方ですよ。音楽学校でも西洋派と民族派がいつも喧嘩している。
助川 するといまは国立の音楽学校には両方あるんですか?
 両方あるんです。場合によって、あるいは地方によって西洋派が負けてしまう。たとえば、どこかのオーデションで曲目を選ぶ場合、どちらかが多くなったりその反対になったりする。
助川 両方が対等というか、ときには民族派の方が強い?
 そう。だからヴァイオリンの奏法でも中国楽器風の方法をとりいれたり、そういう曲を作るとか、いつも論争するんです。
助川 すると、音楽学校の教授たちの力関係でもそういう対立がある?
 それははっきりあります。民族派の方が強いですね。
助川 日本の芸大とはだいぶ違いますね(笑)。

 音楽以外の西洋文化

助川 中国のインテリの家庭の中で、西洋の文学などはどう入っているんですか?
 音楽と同じで文学の研究のために西洋に留学した人たちも大勢いますから、西洋文学も翻訳されて家庭には入っています。ピアニストのフー・ツォンのお父さんがフランス文学の大家ですよ。バルザックの作品の訳をしました。
 すべてのものが中国に入っています。大学の中にも西洋文学という学部があります。フランス文学、イギリス文学、アメリカ文学と専門化しています。ずっと以前から外国人が中国に大学を幾つも作ったんです。北京大学の前身の燕京大学とか輔仁大学とか、租界と同時に大学も作られたんです。その中で西洋文化がすべてとり入れられた。その中で音楽も美術も文学も普及したわけです。

 チェレプニンについて

助川 馬思聡以外の作曲家はどうですか。
 一九三〇年代には、西洋の文化に関心を持った人たちがどっと西洋に行っているんです。そして、フランス、ドイツ、アメリカで学んで中国へ帰っています。アメリカで成功した作曲家には譚小鱗とかいう人がいます。この人はとても若くして亡くなりましたが。でも馬思聡は作曲家よりもヴァイオリニストとして出発していましたからね。中国に帰って、上海の音楽院とか各地で活動し始めるわけですが。江文也も同時期、一九三七年か三八年に北京に出るんですね。
 一九三五年にチェレプニンが中国スタイルによる作品のコンクールを上海で実施しています。この人は次の年あたりに、日本でも日本スタイルの作品曲のコンクールを行なっていますよ。
道下 チェレプニンは現在のNHK交響楽団で、一九三五年と三六年にピアノを弾き彼の作品も演奏されたことがあるんですね。
助川 当時は新交響楽団ですね。N響の前身が日本交響楽団で、その前身が新交響楽団だから。
道下・そうですね。それで、日本の作品を五十数点パリに持ち帰って、そこで作曲のコンクールをして日本作品の紹介をしたわけです。確か、伊福部昭がその時第一位だったんですが。
 そういうわけでチェレプニンは日本作品を世界に紹介した功績者なんですけど、この人は上海から日本に来てるんですね。
 彼は後、中国でも演奏をしたんですが、その後、中国人の女性音楽家の李献敏という人と結婚したんです。どちらかというと、いわゆる東洋趣味の人で、彼自身も中国の題名を付けたピアノ曲を書いてるんです。中国の音階にとても興味持っていたんですね。上海が先か日本が先か私ははっきり覚えていませんが、どうも記憶によると日本が先だったように思います。その後上海に行ったのか、あるいは何度も往復していたのかもしれない。上海で中国スタイルのピアノ曲のコンクールを発起したんですよ。当時一九三五年のことです。上海音楽院は一九二七年の創立ですから、院長の粛友梅に手紙を書いてコンクールを行なうように要請したんですね。十数曲集まって、第一位になった人は中国人の作曲家で、後に馬思聡と同時期に中央音楽学院の副院長をした賀緑汀です。「牧童短笛」というピアノ小曲が一位になりました。四、五分の曲ですけど。
 馬思聡はこの時代にはすでに帰国していたわけです。この時期から中国の作曲界は西洋のものを大々的にとり入れて、しかも中国の音階を使う作風が盛んになっていきます。ですからチェレプニンの仕事は画期的なものでしたね。それから後に日本に来て江文也を紹介したんですね。日本でも確かコンクールをしたと思いますが、江文也が確か二位になったんです。それから江文也はチェレプニンについてまた中国に行ったんです。一九三六年のことかしら。それで中国が気に入ったのか、あいるは日本では彼は受けいれられなかったのか、中国に永住してしまいました。
助川 江文也はもともと中国の人ではないんですか。
道下 台湾の人ですよ。

 作曲家、江文也

 彼はもともと日本人という説もあります。日本で音楽教育を受けたんです。山田耕作の弟子で、東京音楽学校の声楽科で学んだんです。昨年でしたが、声楽の藍川由美さんがリサイタルで江文也の曲をとりあげて、その記事が朝日か日経に出たんですが、「昭和初期、幻の作曲家」という言い方をしていました。それを読むと、江文也は台湾から日本に来たんですが、どうも日本人だったようなことが書いてあるんです。彼自身は後で中国に永住して国籍も中国に移りましたし、中国ではまったく自国の作曲家として扱われています。私は馬思聡を研究していて、中国の作曲家で最もいい仕事をしたのは馬思聡と江文也だと思っています。
 私が論文を書いた時に調べていると、お茶の水大学で台湾の女性が博士論文で「江文也は台湾の人か日本の人か」と書いていました。中国語で書いた論文で中国で発表したものですが、その論文によると江文也は日本の作曲界に大きな影響をあたえているようです。N響の前身の新響でも彼の作品の「台湾舞曲」というのが何度も演奏されてるんです。当時日本の作曲界に活気をもたらした重要な人物でした。
助川 江文也は中国に行ってそちらで亡くなったんですか?
 そう。一九八三年ですか。
助川 最後は中国でどのくらいの地位にいたんですか?
 馬思聡にくらべると地味です。馬思聡は、作曲家よりヴァイオリニストとして知られ華やかな存在でしたね。最盛期は周恩来の招きで北京の中央音楽学院の初代院長に就任して、当時、毛沢東主席と同じ報酬を得ていたくらいですから。リヒテルも中国訪問の時は馬思聡の邸宅に招かれたりして馬の芸術環境にとても感心したといいます。江文也は地味でした。でも北京の中央音楽学院の教授の地位にはいましたよ。
 馬思聡はフランスで勉強してインテリの中でよく知られた存在で、なんといっても自身演奏家ですから、ヴァイオリンの作品を中心に世間に知られるのに圧倒的に有利なんですよ。だから、いま四十才台くらいから上の人で馬思聡の名前を知らない人はいないけど、江文也はそこまでは知られていないですね。でも、作品は馬思聡と劣らぬほど素晴らしいと私は思っていますよ。

 馬思聡のあとを継ぐ人々

 馬思聡は三〇年代から南京中央大学、広東、中山大学でも教えていたし、生徒の数は数えきれないくらいで、その人たちがまた方々で教育や音楽活動をしていますが、ヴァイオリンの弟子は中央音楽学院時代でもいたし、新中国が建国されて、中央音楽学院が出来た時、彼は院長と同時にヴァイオリン科の主任教授になったんです。第一期生は馬思聡が直接教えた人たちで、私の先生もその一人です。一九五三年に初めての卒業生を全国に送り出したわけです。私の夫の王旦の父もその一人です。馬思聡はフランコ・ベルギー派ですが、一九五〇年代は中国が東欧諸国から音楽院に先生を招いて来ましたね。
助川 当時東欧は共産圏だったからね。
 そう。チェコ、ハンガリー、ロシア、スラヴ系ですね。中でも主にロシア系の人たちですね。当時、馬思聡と一緒に教えていたのはそういう東欧の教授たちでした。
助川 そうすると系統的には複雑でしたね。
 ええ。でも、現代ではヴァイオリンの流派も段々混ざってきています。馬思聡がフランコ・ベルギー派として目指したのは、音量はさほど大きくなくても、音がきれいで繊細であることなんですね。
 彼ば直接教えていた弟子は全国で百数十人、各地の音楽大学にいます。私の今度の論文でその系譜のリストを作ったんですけど余りに膨大で最終的に論文には入れなかったんです。
助川 そのお弟子たちがまた生徒を教えているわけだから、孫弟子まで入れると大変な数ですね。
 そうです。彼は音楽院のオーケストラも指揮したし、そのほかに自作の指揮もしましたから影響は大変なものですね。お弟子が中央音楽学院の教授になったり、地方の大学の先生になったり、また外国に行っている人もいます。 
道下 一流の人材たちですね。
 そのほかに院長としての公務もあったし、自分の演奏のために一年の半分くらいは北京を離れていました。だから、レッスンも集中的にやりましたね。この人は多産な作曲家なんです。
助川 しかし、院長が年の半分いなくなるんじゃ困るじゃないですか(笑)。
 彼はね、本当に会議が嫌いな人(笑)。めったに出ないし、たまに出ても一言しかしゃべらない(笑)。
助川 それじゃ、誰かが代役やってたんじゃない?
 周恩来の指名だったから院長になったけど院長職は好きじゃなかったみたい。「皆さん勉強して下さい、あらゆる勉強の条件は提供します」って、毎回同じことしかしゃべらないんですって(笑)。
道下 教育官僚や行政官僚でなくて、心底、演奏家、作曲家だったんですね。
 だからね、もう少し話が好きで上手な人だったら文化大革命の時も、幾らかは保身ができたんでしょうが。あまりにインテリで芸術家すぎて一番の槍玉にあげられたんですね。

 馬作品の難しさ

道下 馬思聡が大きな存在で影響が大きいことはよく分りました。劉さんは、そのほかに力を入れて紹介したい中国の作曲家はいますか?
 馬思聡について言えば、私はヴァイオリニストだから、ヴァイオリン作品に限って紹介したいというのは、彼を、一人の音楽家として、一人のヴァイオリニストとして、一人の作曲家として、そして何よりも一人の中国人として、西洋の文化と中国の文化が、馬さんという一人の中国人の中でどのように反映されているか、それを世界に紹介したいということにねらいがあるんです。
 ほかにも沢山すぐれた作曲家がいますけど、当然ヴァイオリンの作品は馬思聡ほどはありません。ですから、私が演奏して紹介しようとしても一曲か二曲しかないから全容が解りにくい。作曲家たちの資料があっても私としては紹介の方法がままならないわけです。その点、馬思聡はヴァイオリンの曲を通して私の力で紹介できる。そういう関わりの由来もあるわけです。でも、馬思聡の作品を通した場合、中国と西洋の関係、近代文化と中国のあり方が一番よく分るように私には思われますよ。そして馬思聡の曲でもまだ私に出来ないものが沢山ありますからね。ほかの作曲家にまでとても手が届かない状況ですね。
 だから、私には、西洋の作品を演奏しないで馬思聡の曲だけに専念してもいいくらいなんですね。しかし、西洋のものもやりたいから同時進行で馬思聡と西洋のものとを演奏しているわけです。そしてまた、馬思聡の曲自体が西洋的なものを豊富に含んでいますから。
道下 先日のリサイタルで私ははじめて馬思聡の曲を聴いたんですが、旋律は中国風でも音楽全体はフランス風のものを感じましたね。特に和声の響きが。でもそれがミスマッチではない。でも、どうですか、ヴァイオリンの奏法は難しくないですか?
 難しいですね。いつも言われるんですけど、「劉さんは自分が中国人で、一番得意な馬思聡の曲を弾くんだから安心でしょうね」って。ところがそうではないんです。五音音階はヴァイオリンに移すとひどくとりにくい場合があるんです。自国の音楽であるが故にプレッシャーを感じるんです。自分がどのように解釈したらいいかということでプレッシャーを感じる。それと、彼の音楽特有の難しさがある。だから、この前のリサイタルでフランクを弾きましたよね。馬思聡の場合は自国のもので血がつながっているけど、西洋のものは頭で理解しようとする。馬思聡はからだで弾いてしまうところがあるんです。それが先になるんです。自分がもう解っているような気になるんですね。そこがかえって怖い。
助川 近過ぎるというですね。
 そう。音程が難しい。
助川 しかし彼は自身がヴァイオリン奏者だから楽器に反したことは書いてないでしょ。
 無論そうだけど、その上で難しいんです。たとえば増四度とか、減五度とか、それがヴァイオリンの上に出てくる。そして、西洋的なものが突然出てくるし、その上に突然民族的なものが出てくる。もちろん、ヴァイオリンの本性に反したことは書いてないですよ。しかし、可能だからこそ難しいんです。私たちはなんと言っても西洋音楽の耳で訓練されているから、そこへ突然五音音階が出て来ると難しい。モーツァルトはこう弾くんだということは頭に入っているけど、彼の曲はいつも考えていないと解釈自体を忘れるんですね。
助川 西洋音楽の場合は長い伝統があるから一つのまとまりとして覚えるけど、彼の場合は、それがないからね。それに近過ぎることもありますね。
 そう。だからなんにも考えないで弾こうと思えば弾けるんだけと、それ以上の可能性を目指すとなると毎回考えなければならない。皆さんは練習なしでも出来るでしょうみたいに言うけど、とんでもないですね。リサイタルの時アンコールで弾いた曲なんか、民謡素材の曲だから、やさしいといえばやさしいけど、毎回別な可能性が出てくるんですね。いわゆるハートを読み取るのが難しい。
助川 馬思聡のヴァイオリン協奏曲をCDで聴きまして、第一楽章後半のすごく長い部分で作曲者がいかにヴァイオリン的な楽想を聴かせたかったかを強く感じました。
 カデンツァですか?
道下 そうです。大変に長い部分で。
 第一楽章の長さはベートーヴェンの協奏曲とほとんど同じです。十八分以上です。ブラームスやチャイコフスキーと同じ規模の大曲です。中国では最初のヴァイオリン協奏曲ですね。

 東洋人と西洋音楽

助川 ところで、西洋の音楽には和音があるけど、日本には伝統的にそれはなかった。そのため、日本人は西洋の和声を明治以来どうしても学ばなければならなかった。中国の音楽には和音はどうだったんですか?雅楽は中国からきたけど、あの中には幾つもの音が同時に鳴るものがありますね。
 やはり和音はないですよ。ないけどヘテロフォニーはあります。それが和音的な現象を生み出す場合はあります。ヘテロフォニーでも声部の数が多くて、四声か五声くらいまである。一つの旋律を模倣しながら繰り返してゆく内に少しずつ変り装飾も加えられていく、そういう形があるんです。器楽の合奏でも互いに同じ旋律を弾くんだけど、同じ音で弾くんではない、違う音で同じ旋律を弾くというわけです。
助川 レイボヴィッツは、対位法は西洋だけが生み出したものだと言っていますね。
 中国のある学者が書いた本で「中国民謡における対位法の研究」というのがあるんですが、そこで採譜されたものを見ると対位法に近いものがあるんですよ。馬思聡のヴァイオリン協奏曲の第二楽章にそのヘテロフォニーの技法がはっきり使われている部分があります。違う音で同じ旋律をなぞるんですね。そこに九の和音ゃ十一の和音を使ったりしてる。
道下 日本人が西洋音楽を演奏する時、リズムなどが西洋的でないなどと言われることがあるんですが、劉さんの場合、西洋音楽にそういうものを感じることはありますか?
劉・特に意識したことはないですね。西洋だからこう弾こうという意識はないですね。ただ最近、馬思聡を弾くようになってから、中国音楽のポルタメントが西洋の曲に入ってこないようそれは気をつけています。この間、フランクを弾く時、浦川先生が「フランクを馬思聡みたいに弾かないように」と言われました。そしてリサイタルの後で浦川先生が楽屋に飛んで来て「フランクに中国の弾き方が入らなくてよかった!」って真っ先に言われました(笑)。馬思聡の中のポルタメントはこうあるべきだし、フランクはこうあるべきと、それぞれ心得ていますけど、特に二つ分けてはいない。先生は真っ先にそう言われたけど。
助川 日本人は付点音符がにぶくなるんですが。そういう点はどうですか?
 日本人で素晴らしい演奏家、ヴァイオリニストは沢山いますが、一つ私が感じるのは、歌い方が不自然ですね。ひねって歌うんですね(笑)。それよりも音ですね。声楽でも、中国人の声、音と日本人の声楽の声とが全然違うんですね。発音なんでしょうか。ヴァイオリンでも、芸大のレッスンで中国には胡弓の伝統があるせいか右手の使い方をほめられました。それは先生が日本の学生によく言っていました。私は特に意識していませんけどね。
助川 リズムはどうですか。
 そうですねえ、そう言われれば私も付点があまいかもしれませんがね。もしかしたら東洋人は皆そうかもしれませんね。

 演奏家・学者・学生・主婦・母

道下 最後の質問でが、劉さんは、演奏家で学者で学生で主婦で母で、五つの役を一度にこなされるということはどうしておられるんでしょうか。日本でも主婦と育児と仕事と、この三つをこなすだけでも大変だとよく言われます。なかには、仕事の方を数年間休止したり辞めざるをえないということも言われますが、どんなふうに時間のやりくりされているんでしょうか?
 はっきり言って時間が無いですね。最初は結婚もしないでヴァイオリン一筋で行こうと思ってたんですけど、それでも結婚してしまって、こんどは子供は持たないと考えていたんですが、子供も出来てしまった。一時はずいぶん悩みましたね。ヴァイオリンが出来なくなるから。それでも自分以外の人のせいにしてはいけない、夫のせいにしてはいけない。
 私には考える余裕がなかったんです。子供が出来た時が学位論文出すか出さないかの最後の時でしたから。五年間博士課程にいて論文出さなければ博士課程修了とみなされますからね。その五年目に子供が出来たから。猶予の段階でなかったんです。だから、かえって、やろうという気になったんですね。
 妊娠期間中は随分悩みましたね。生まれて一ヵ月後にはもう論文作成に入りました。十二月に生まれて五月には予備申請を出さなければならない。百頁くらいの文を出なければならない。だから、生まれて一ヵ月後には子供を背負って芸大に生きました。最初は恥ずかしかった。でも皆が「可愛いね」って言ってくれて。楽理科の片山千佳子先生がソファを用意して下さって「ここに寝かせなさい」って言って下さるんです。誰も無理とか大変とか言う人はいないんです。とにかく馬思聡の論文をまとめなさいって言って下さるんです。あなた以外には出来ない仕事だから、皆が期待してるんだからって。
 子供におっぱいやりながらコンピータの前に座って仕事しました。それでも、その時はまだ寝てたから、赤ちゃんだったからまだよかった。今はかえって出来ないと思いますよ。
 そうして論文の予備を審査してもらって、これはとても価値のある研究だからぜひ本論文を出すようにと、三百枚くらいにまとめるように言われました。あと半年しかなかった。子供が一才になった時、こんどは演奏をしなければならない。演奏はしばらく休んでいたからこれはなかなか大変でした。おっぱいとコンピュータの交替だったから。部屋の中は原稿だらけ。子供の這い這いは原稿の上。 「それは原稿だからだめ」っていう余裕もないんです。
 自分はかつて子供は要らないって思ってたんですけど出来てみると可愛いんですね。上海の実家で母に預けようと思ったんですね。ところが日本に帰る飛行機の荷物の荷造りもしたのに考えが変ったのね。自分のヴァイオリンも論文も一回のチャンスだけだけど、この子が成長するいまの時期を見るのも一回だけだって。あとで自分のために子供を二義的に扱ったって言われたくもないし。飛行機に出発する二三時間前に荷造りした荷物を全部ほどいて、日本に連れて帰ることにしたんです。
 さっき言われたようにいつも同時発生なんですよ。今日も、子供が少し風邪気味だから出掛けるのを少し早目にしたり。自分のことと子供のことと、家のことと、ダンナのことと、いつも悩んでいますね。悩みの中にいるんです。でも、どれをやらなければならないか、子供が出来てから分別がつくようになりました。その前は自分中心のお嬢様的思想でしたけど、いまは決断ができるようになりました。まず子供で、次がヴァイオリンとか、そういう決断をしないとやっていけないんですよ。両立することは出来ません。よく両立させてるからえらいって言われるけど、両立は不可能ですよ。どちらかを選ぶんです。今日はこれ、明日はこれは出来ないからあれって。自分の中には子供とヴァイオリンと両方があるんです。ヴァイオリンをどうやって向上させるかっていつもやりくりするんですね。
助川 ご主人の協力もえらいですね。昔の日本の男は男性優位でいばってたけど中国ではどうですか?
 それは毛沢東のおかげで、平等、民主的な関係になりましたよ。
道下 今後の活動の予定はいかがですか?
 うーん、CDを売ること!(笑)。
 馬思聡の音楽をもっと多くの人たちに聴いてほしいから、大きな演奏会と限らず、どんな小さな場でも機会があれば演奏したい。そのほかに、日本でコンサート・ツアーをしたいと思っています。中国でもコンサート・ツアーをしたいですね。CD売るほかに、それがこの二、三年の間にしたいことかな。

 

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