オペラの新たな可能性を求めて  作曲:中島洋  

                                                                 
私と劇音楽との出逢い

 実は、私が初めてオペラを鑑賞したのは、小学校3年の夏のことで、8歳の時であった。音楽好きの実母に連れられて、夏休みに東京の親戚の家を訪れた時のことであったが、姉、そして母と同じく音楽好きだった叔母の四人で、旧日比谷公会堂で『トスカ』の舞台を観た。私がいくらかは音楽的素養のある子供だったとはいえ、8歳の子供にとって、オペラ鑑賞は退屈でしょうがなかった。それでも、幕間になると、母がストーリーを説明してくれたので物語について少しは解出来た。今でも、スカルピアがトスカに刺されるシーンと、カヴァラドッシが銃殺されるシーンは記憶に残っている。トスカを演じたソプラノは若き日の砂原美智子だったと思う。他の配役についてはまったく憶えていない。
 高校生になると、劇音楽に興味を持ち始めたが、なにせ片田舎に住んでいたため、せいぜいテレビやラジオで接するだけであった。その頃は舞台を伴う音楽様式は、反って聴き手の想像力の広がりを妨げるような気がして、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』や、表題付きの『幻想交響曲』のように、舞台を伴わないドラマチックな作品に惹かれた。しかし、高校2年か3年の頃だったと思うが、テレビでシミオナートの演ずる『カルメン』を鑑賞した時には、その魅力に圧倒され、テレビの前に釘付けとなった。
 18歳の時、東京の音大に入学してからは、生のオペラを鑑賞する機会が持てるようになったが、金銭的な理由もあり、決して頻繁に劇場に足を運んだ訳ではない。ただ、オペラを含め、音楽ドラマ全般に対して親しみを感じ、LPやFM放送を通しで、ワーグナーや、ドビュッシーなどのオペラ作品、そして三善晃の音楽詩劇『オンディーヌ』などを聴き、また楽譜もかなり買い込んだ。
 私は、決して熱心なオペラファンとは云えなかったが、当時から純音楽より、劇音楽の方に関心と親近感を抱いていた。音大の教員であった35歳の頃、自作の台本による学生向けのメルヘン・オペラを作曲したが、その時、オーケストラの編入楽器として使用した電子楽器の可能性に興味を覚え、それをきっかけとして大学で電子音楽を研究するようになった。しかし、私が強く興味を抱いたのは、1950年代の実験的で無機的な電子音楽ではない。私が研究を始めた1980年代の頃になると、電子機器は急速に進化し、この世に存在する様々な音を取り込むことが出来るようになった。私が興味を抱いたのは、電子音響の導入がもたらす、音楽表現の可能性の拡大だった。例えば、空襲で焼け出された人々の阿鼻叫喚の声、爆弾の破裂音、そのような楽器演奏では得られない音響まで取り込むことが出来、その結果、いままでに為しえなかった表現の創出が可能になる。しかし、私には生楽器の演奏が創り出す音楽を排除しようという意識は毛頭なかった。生の楽器や人声には、そこからしか得られない音楽表現の世界があることは、ずっと音楽に携わって来た私には当然のことながら良く判っていた。
 私は電子音楽を表現媒体とした場合、純音楽の分野より、舞踊など他の芸術ジャンルとのコラボレーションによる芸術創造の分野に、より幅広い芸術表現の可能性を見いだせると考え、舞踊と電子音楽のための作品をいくつか創作している。
 しかし、晩年というべき年齢に達したいまは、電子音より再び生楽器や人声の響きにより親近感を抱くようになった。また劇的作品においては、言葉の持つ広く深い表現の力に、昔にまして強く惹かれるようになった。私の半生は創作面においては試行錯誤の繰り返しだったといえるが、自分自身が求め続けて来た私自身の劇音楽の創造を決して諦めてはいない。

オペラコンサートの開催と我々がめざすもの

 日本音楽舞踊会議のオペラコンサートも今年で9回目を迎えるが、私がこの企画を立案した理由は、様々な様式のコンサートを開催している本会でありながら、純音楽に比べ劇音楽の比重が軽すぎると思えたこと、また我が国の音楽愛好者に対してもっと手軽で親しみ易い方法でオペラを提供し、我が国におけるオペラ愛好者の層を厚くしたいという思いがあったからである。しかし、実現に向けていくつかの障碍があったが、2003年からフレッシュコンサートなど、若い音楽家のためのコンサートが開催され、オペラが歌える若い歌手を発掘出来るようになり、企画を具体化する条件が整って来たこと、佐藤光政氏、島信子氏、亀井奈緒美氏など会員の方々の強い支援と協力が得られたことなどにより、企画をスタートさせることが出来た。第1回目を開催した2005年12月の時点では、私はまだ現役の音楽大学教員で、生憎、公演当日大学で授業があり、ゲネプロに参加出来ず、関係者の顰蹙を買ったが、第2回目以降は専任教員だった音大を定年退職したため、企画を推進するための時間的余裕が出来た。そこで、日本語台本の作成、舞台音響などが私の分担となった。オペラに対する価値観、考え方は個々のスタッフ間でまったく同じというわけではないが、声が通りやすく、演技を間近で見ることが出来る小さめのホールで、お客さんにとって親近感のある舞台を創り出して行く、という基本的考えでは一致していた。また、台詞(セリフ)を入れることが出来る作品を好んで取り上げ、台詞は日本語で通した。歌唱部についてはイントネーションなどが不自然にならないよう原語歌唱を原則としたが、『メリ−・ウィドウ』、『ヘンゼルとグレーテル』については、歌唱部においても日本語の訳詞を採用した。

我が国のオペラ界の「本場物志向」への疑問
 我が国にも熱心なオペラ愛好家は少なからず存在する。どこの国でもオペラの愛好者は富裕層に属する人たちの割合が高いのであろうが、それでも、ウィーンのフォルクスオーパーでオペレッタを鑑賞した時の雰囲気などからは、より気さくで庶民的なものを感じた。我が国のオペラ・フアンの多くは本場物志向が強く、金と暇のある人たちは、ウィーンのスターツオーパーや、ミラノのスカラ座、ニューヨークのメトロポリタンまで聴きに行く人も少なからず存在するようだ。お金があっても、それほど時間的ゆとりのない人たちは大枚をはたいて来日した外来オペラを聴きに行く。二期会などの日本人のオペラも鑑賞するだろうが、それらは外来オペラに比べ1ランク下のものと認識しているオペラファンも少なからず存在するようだ。
 昭和の時代に建設が待望されていた新国立劇場(以下新国と略称)も、平成の世になり1997年には完成する。オペラの普及を視野にいれ、毎年「高校生のためのオペラ鑑賞教室」を開催したり、人材育成をめざして、オペラ研修所を開設するなど、有意義と思える活動をしてはいるが、オペラ劇場の本公演では、主役クラスの多くは、外国人歌手を採用し、折角育てたオペラ研修所の修了生は、せいぜい端役しかあてがわれないことが多いようだ。西洋のオペラ作品を大きな劇場で上演する限り、声量、体格に勝る外国歌手に主役の座を譲らざるをえないのは、あるいはやむをえないことなのかもしれないが。
 しかし、声がそれほど大きくなくとも、声が通りやすい小スペースでなら、声の美しさ、表現の繊細さ、奧の深い演技力でお客を魅了出来る日本人歌手は少なからず存在するのではなかろうか。そういう考えもあって、新国のオペラ劇場の公演とは正反対のスモール・オペラを掲げて、毎年公演を続けている、
 もう一つの疑問は、昨今の字幕スーパーつき原語公演スタイル一辺倒の風潮に対してである。確かに日本語の訳詞で歌うと、原作の音楽的魅力を損ないかねない作品もある。ずっと昔、ワーグナーの「マイスタージンガー」の日本語訳公演を聴いた時、当時は字幕スーパーなどなかったが、それでも原語公演の方がずっとましだと思った。ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』も日本語で公演されたことがあったが、この作品は歌唱パートの音程の抑揚幅が小さいせいもあってか、日本語で歌ってもそれほど不自然に感じられなかった。
話題を字幕スーパー付き原語公演に戻そう。たとえ原語公演の方が作曲者の音楽表現をより忠実に再現出来るとしても、鑑賞者が字幕スーパーに気をとられすぎると、肝心の音楽表現や演技に集中出来なくなってしまう恐れがある。ところで新歌舞伎座では、前の座席の後に、演目の解説などを文字表示することが出来るらしいが、私はそのシステムを一度も利用したことがない。そんなものを読んでいては、精神を舞台に集中することが出来なくなるからだ。歌舞伎の場合は、日本語なので、作品を知っていれば、字幕の解説は不要である。しかし、オペラの場合はそうは行かない。では、どうしたらよいのだろうか。

翻訳劇がもたらしたもの

 新劇の世界では、日本の戯曲作品に混じり、それと劣らぬウェイトで翻訳劇が上演される。希にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーなどが来日し、シュエイクスピアの戯曲が原語で上演されることもあるが、翻訳劇として上演される機会の方が遙かに多い。中には、東山千栄子が300回もラネーフスカヤ夫人役を演じたチェーホフの『桜の園』や、杉村春子が30年以上もブランチ役を演じた、テネシー・ウィリアムスの『欲望という名の電車』のように、特定の俳優が当たり役を得ることで、より広い観客層を獲得した作品もある。
ところで、日本語で演じたチェーホフは偽物だろうか。そうではなかろう。日本人が日本語で演じても、チェーホフが描いた世界は壊されないばかりか、さらにより繊細な心理描写などが加味されて、日本的にリアレンジされたものとなるのではなかろうか。そうすることにより、チェーホフの戯曲は我々日本人とって、懐かしく愛おしい作品として消化され受け継がれて行く。翻訳劇は芸術的にみると、再現と創造の中間に位置するような存在ではなかろうか。そして、それは新たな創造の種さえ播いて行く。たとえば三好十郎の『炎の人』は、作者が画家ゴッホの絵や手紙から強いインパクトを受け書き下ろした作品であるが、劇中のゴッホとゴーギャンの激しいやりとりは翻訳劇を彷彿させるものがある。しかし、ゴッホを通して描かれた人物像には「人は(自分は)かく生きたい」という日本人三好十郎の熱い思いが込められている。

ニセモノの本場物と、本場物でないホンマモノ
 「字幕付きスーパー+原語公演こそ、作曲家が描いた世界を伝える最善の方法」という思考には落とし穴がある。音楽芸術とは創造、再現(演奏)、受容(鑑賞)の三者が相互に関わり合うことで、成り立つものだからだ。
 また、ドイツ語の習得が不十分な日本人歌手がドイツ語で歌ったとして、一つ一つの言葉にそれに相応しいニュアンスを込めて表現することが出来るだろうか。逆に翻訳劇のチェーホフを演ずる俳優は、慣れ親しんだ日本語で言葉の意味を深く噛みしめ、台詞を唱えることが期待できるであろう。
 つまり原語で歌ってはいるが、魂の通わないニセモノだったり、日本語にアレンジされており本場物(原語)ではないが、表現は魂が通ったホンマモノ(本物)だったりするということもありうるのだ。たとえ「原語公演こそが作曲家が創造した世界を最も忠実に再現する方法」という説は認めるとしても、字幕スーパーに気をとられ、歌い手の声や演技に心を集中させることが出来なかったなら、作曲家が心に描いた世界がはたしてその聴き手の心の奥底に届くであろうか。

勇気をもって様々な道を歩んでみよう

 日本のオペラ愛好者の多くが、「字幕スーパー付き原語公演こそが王道」という思考に取り憑かれているとしたら、そこに我が国のオペラ鑑賞の土壌の浅さが示されていると云えないだろうか。オペラ作品、そして公演形態が多様であるように、その楽しみ方も本来より多様であってよい筈である。大きな劇場で上演される大がかりなグランドオペラもあれば、我々のように、「スモール・オペラ」を旗印にした公演もある。字幕スーパー付き原語公演もあれば、日本語の訳詞による公演もある。聴き手は様々な公演を体験し、自分に適合した鑑賞スタイルを探して行けば良い。
 我々の会では、来年度はドボルザークの『ルサルカ』の日本語公演を計画している。歌い手にとって、まったく意味の分からないチェコ語で歌うより、一つ一つの言葉のニュアンスを噛みしめることが出来る日本語で歌った方が、聴き手の心を捉える歌が歌えるのではないかという想いから、全曲を日本語で通すことにした。また、原作には台詞だけの部分はないが、原作をリアレンジして、台詞の部分を加え、音楽劇風にまとめ上げている。翻訳劇の章で、再現と創造の中間に位置するものという喩えを用いたが、オペラの世界にも、そのような試みがあってもよいのではないかと考える。ドボルザークの作品をリアレンジすることで、作品が内包する新たな魅力を引き出したと評価されるか、ドボルザークの作品をズタズタに引き裂きダメにしてしまったと評価されるか、そのどちらの可能性もありそうだが、成功しても、失敗しても、将来に向けてなんらかの良い種となるものを得たいと考えている。

創作オペラの可能性について

 團伊久磨のオペラ処女作『夕鶴』を鑑賞した時、日本的情感が漂う美しい作品だが、日本版プッチーニという印象を強く受けた。以後の作品において、作曲者はその殻を破るべき試みを重ねたが、皮肉にもごく若い頃書いた『夕鶴』のみが、いまだに最も上演回数の多い作品となっている。
 我が国には、歌舞伎、能、文楽など西洋のオペラとは様式、表現の質において異なる総合芸術が存在する。何も、それらの要素を取り込み、西洋のオペラに対抗する作品を作ろうなどと力まなくとも、我が国独自の総合芸術を育んだ感性は、我々の心の中に残されていると思う。
 私が構想する音楽ドラマは、イタリアオペラのように、ソリストの声量と歌唱力に依存し過ぎるのではなく、合唱、重唱などのアンサンブルを多く取り入れ、音楽と台詞で紡いで行く音楽劇のようなものである。私はその作品をオペラとは呼ばず「音楽童話劇」と名付けている。
 これは、私個人の計画だが、一見不毛に見える、現代オペラ(音楽ドラマ)の創造について、既成の価値観や概念の呪縛から心を解き放つことが出来れば、多様な可能性が開けてくるように思える。新しい創造のヒントとなるべきアイディアは、既成のオペラ作品をリアレンジする行為の中からも、見つけ出すことが出来るかもしれない。

    (なかじま よういち  本誌編集長/オペラコンサート実行委員長) 


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